プロフィール

Yoko NAGATA

ながたようこ

株式会社PLUS-Y 代表取締役
シェアサロン みずいろ会館 オーナー


 

はじめまして。ながたようこです。
千葉でPLUS-Y(プラスワイ)という会社を経営しています。

会社は

  • 女性マーケティングのコンサルティングや販促支援
  • 女性の起業のサポート
  • 介護用品のネットショップ運営(楽天市場2店舗+amazon)

という3つの事業を行っています。

また、会社とは別にみずいろ会館という女性専用のレンタルスペース兼シェアサロンのオーナーもしています。

私は「女性が女性らしく輝けるステージを創る」というテーマで活動しています。

  • 子育て中の主婦などでも働きやすい職場や条件の整備
  • 女性が持つ能力を発揮できる仕事の提案
  • 女性がやりたい事を自由にできる社会

こうしたことを実現したいと思い、日々仕事をしています。

ではなぜ、そうした考えを持つようになったのかについて私自身の生い立ちを解説しつつ、プロフィールとしてお伝えしたいと思います。

かなり長文なので、「ものすごく私の生い立ちに興味がある」という人以外にはおすすめしませんけど(笑)

では、私の生い立ちに興味がある、という奇特な方はどうぞ!
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意気揚々で行った英語留学から目的を見つけられずに帰国

私は長野県の須坂市という田舎町で生まれ、高校まで過ごしました。

そして高校を卒業後、英語を学ぼうと1年間、米国のシアトルに留学をしました。

その当時の同級生のほとんどの女子が地元の短大に進むなかで、留学する女子はとても珍しく、ちょっと鼻高々だったことを覚えています。

シアトルのワシントン大学のESL( English as a Second Language )に入学し、山ほどの課題・宿題に追われながらも楽しい留学生活を送っていました。

ところがある日、知り合った人から「ヨウコはアメリカに何をしに来たんだ?」と聞かれたのです。

当たり前のように「英語を学びに来た」と答えたところ、「英語を学んで何をしたいんだ?」と尋ねられて言葉が詰まり答えることができませんでした。

英語を学んだ先にどうするか??

実は、そこから先のことを深く考えていなかったのです。

もちろん、なんとなく
「日本に帰ったら英語を使った仕事したい」
「秘書とか通訳とかな~」
などと思っていたものの、本当にそれがやりたい事かどうかに自信がありませんでした。

英語は手段であって目的では無い。

それをその時に初めて深く理解し
「これからどうしよう」
「英語を学んで何をしようか」
と悩むことになりました。

もともと1年という期限付きの留学だったのですが、英語を学ぶ目的を見つけられないまま、日本に帰ることになりました。

やりがいのある仕事で実績を積んで日々充実の会社員時代

帰国してアルバイト期間を経たのち、地元の雑貨メーカーに就職することになりました。

特にやりたいことがあったわけではありません。
でも実家でブラブラしているわけにもいかず、お金も無かったので、新聞で見つけた求人募集に応募した、というのが事実です。

ところが、これが実に私の性格に合った会社でした。

社長は女性で、ベンチャーで立ち上げた会社。
当時社員の平均年齢は27歳くらいだったでしょうか。
若い人が多く社内は活気に溢れていました。

そして、性別や年齢に関係なく実績で評価されたので、20代で年収が1千万円を超える人もいるような会社でした。

最初は直営店舗の販売スタッフからのスタートでした。

そこで「物を売る」という面白さにはまり、翌年には店長を任されるようになりました。

工夫してお店作りをして接客で売り上げを伸ばすというのがとても楽しく、性に合っていたこともあり、結果がついてきて、前年比200%の売上の実績を積んで大型店の店長を任された後に、エリアマネージャーになりました。

その後、商品開発に 一時期携わりましたが、再度店舗運営に戻り管理職となり数百人の部下を束ねる立場で全国を飛び回る充実した日々を過ごしていました。

またその頃、夫と知り合って結婚しました。
ところがお互いに仕事が忙しいうえに勤務地が離れていたので、俗にいう『週末婚』を1年ほどしました。

その後、夫が千葉に転勤となり『別居婚』へと変わりましたが、仕事が充実していたこともあって、寂しい気持ちなども特に感じず、楽しい毎日を過ごしていました。

 

外部のコンサルに指摘されてあっけなく挫折し退職

ずっと右肩上がりに成長を続けていた会社でしたが、ベンチャー企業の常で、ある時期になったら業績が伸び悩むようになりました。

いわゆる「踊り場」の時期に入ったのですが、それを打破しようと会社が依頼した大手の経営コンサルティング会社からコンサルタントが数名派遣されてやってきました。

私の担当する店舗を視察して運営の状況を確認して改善点をコンサルタントが指摘するのですが、最初は私に対して「よくやっている」と非常に高い評価をしていました。

ところが数か月経った頃から急に「あの人のやり方が悪い」と私を名指しで非難するようになってきました。それも私には何も言わず、社長への報告の場だけで何度も非難されていたのです。

社長秘書から寝耳に水の話を聞いてびっくりすると共に悔しい気持ちが溢れました。

直接反論する機会が全く無く、仕事で見返すしかなかったのですが、たたき上げで現場で実績を積んだだけの私には、論理的なビジネスの手法やマーケティングの知識も無く、何をどうしたら良いか、どう動いたらいいのか、急に分からなくなってしまったのです。

高卒という低学歴のたたき上げの限界を感じた瞬間でした。

それまで、辞めることを一度も考えたことが無かったのですが、初めて「会社を辞めたい」と思うようになり、会社に行くのが嫌だと思うようになったのです。

一旦辞めたい気持ちが芽生えたら、そればかり考えるようになってしまい、次に何をするか、転職先なども考えないまま逃げるように12年勤めた会社を退職をしました。

  

ひと回り年下の子と机を並べた大学・大学院生時代

会社を退職して、千葉に住んでいた夫と同居し、いわゆる「専業主婦」という生活を始めました。

いずれまた働こうとは思っていましたが、退職金も含めると数年間は仕事をしなくてもいけそうでしたし、夫はそこそこ稼いでいたので、私は好きなことができる状態でした。

コンサルタントから非難されたことが悔しかったこともあり、経営やビジネスについてきちんと学びたいと思う気持ちと、再就職するにも高卒では雇ってくれる会社が限られていることという理由で、大学で勉強する道を考えました。

そして色々調べた結果、社会人枠がある立命館大学の経営学部を選び、小論文の試験に無事合格して入学することになりました。

滋賀にあった大学に通うため、また夫と別居の生活がスタートしました。

当時私は30歳。
ちょうどひと回り(12歳)年下の18歳の学生と一緒に机を並べて勉強をしました。

大学の傍ら、知人の紹介で京都にある会計事務所で雇ってもらうことになりました。

ただ、簿記も知らず、会計の知識が全く無かったので、入学早々、簿記の授業をとって3級の資格を取りました。

大学では経営やマーケティングについて学びましたが、本当に目から鱗の日々でした。

これまで実践で身に付けたことを、論理的・体系的に説明されて「あぁ、そういうことなのか」と納得の授業ばかりで、知的好奇心が満たされる毎日でした。

そして、会計事務所では生の経営に触れることができるうえ、会計や税務について学ぶことができ、その後、私自身が起業した時に非常に役立つことになりました。(この当時は自分が起業するとは思っていませんでしたが・・・)

そして要領よく4年の大学を3年で単位を修了し、飛び級制度を利用して大学院に進みました。

大学院ではシニアマーケティングをテーマに、カルチャーセンターの研究を行いました。

高齢化が進む日本ではシニアマーケティングが必要になるのではないか、との思惑でしたが、その分野については今はまったく関係ないのが残念です(笑)

カルチャースクールの企業に飛び込みで協力を依頼し、2,000名の会員にアンケートを実施して、夜な夜な回答を手入力して分析して論文を書いたのですが、大変だった半面、とても充実した時間でした。

 

再就職したもののあっけなく専業主婦に逆戻り

大学院修了後、夫の住む千葉に戻り、都内のマーケティング・コンサルティング会社に再就職をしました。

マーケティングのコンサルティングやセミナーなどをしている会社で、とてもやりがいのある仕事を任せてもらっていました。

ところが、ある日突然、母親から「お父さんが入院した」と電話がありました。
脳梗塞で入院したという知らせでした。

実家は長野で、私は一人っ子。
母は高齢で難病を患っているため、病院へ父の看護に行くのもままなりません。

そこで、残念な気持ちはありましたが退職し、父の看護をしました。

幸いにも半年ほどで父はほとんど元の生活に戻ることができたので、私も千葉に戻ってまた専業主婦生活をすることになりました。

黒歴史の専業主婦時代

その当時は『転職するなら35歳まで』と言われていた時代でした。
私は既に36歳を過ぎているうえ、女性で高学歴の割には経験が少ないという転職市場では落ちこぼれの状態でした。

さらに、働き始めたばかりのコンサル会社を中途半端な形で辞めたこともあって、再度再就職をする気持ちになれず、だらだらと専業主婦という気楽な肩書に甘んじていました。

子どもがいたらママ友などとの交流もあったかもしれませんが、私には子どもがいないため、夫以外の誰とも話もせずに家に引きこもる日々でした。

その夫も朝早く出て夜遅くまで帰ってこない日も多かたので、一日終わって振り返ってみると、話をしたのはスーパーのレジのおばさんだけ、という日が何日もありました。

「大学院まで行って勉強したのにこのままの状態じゃダメだ」と思うのですが、だからといって就職する気も起きません。

一日家の中にいるのに息苦しさを覚え、意味もなく街を歩き回る日々が続きました。
そんななかで、ついこの前まであったお店が無くなっている、と気付くことが何度もありました。

商店街と言われる通りが、シャッターばかりになっている様子をみるにつけ、大学や大学院で学んだマーケティングの大切さを思い返す日々でした。

一方で、自分には何ができるのか、何をしたいのか、ということがハッキリと分からなくて悶々としていました。

マーケティングで起業したもののダメダメな毎日

3食昼寝付きの専業主婦生活も気が滅入るうえ「何かしなくちゃ」と気が焦るばかりで、最終的に思いついたのが「起業」です。

いまさら再就職するのも何だし、前みたいに東京まで朝いちばんの電車で行って最終で帰ってくる生活はもうしたくないし・・・

そんな後ろ向きな考えで選んだ道でした。

「好きなことを仕事に」とか「やりたいことで起業」とかいうのとは全然違って、それしかやれることが無かったというのが正直なところです。

専業主婦でとりあえず旦那の給料で食べてけるし、大きな投資とかしなければ損もしないし・・・という甘い思いでのスタートでした。

何で起業しようかと考えたところ、私にできることと言えば「マーケティングの知識を教える」ぐらいなのだったので、事業内容はマーケティングのコンサルティングやセミナー講師をしようと思いました。

でも、いざやろうと思っても、千葉で知っている人は夫だけ。
友達も知り合いもいませんし、お客のアテもありません。

だから「起業する」という掛け声だけで、実質は毎日テレビ観て、昼寝して、ちょっとカフェに行って資料を作ってはまた家に帰ってテレビ観て寝るだけ、という生活を過ごしていました。

まさに黒歴史の中途半端な毎日を過ごしていたのです。

  

創業塾からのインキュ入居で着実に起業

さすがにテレビを毎日観ている日々にも飽きた、というよりも、これではマズイと思い、まずはとっかかりを掴もうと商工会議所で開かれている創業塾に参加しました。

そこで千葉市で運営しているインキュベーション施設の存在を知ったのです。

家から徒歩5分の場所にあるインキュベーション施設への入居は、私の起業に本腰を入れてくれるきっかけになりました。
たぶん、それがなかったらいつまでも家でテレビ観て昼寝している毎日だったかもしれません。

違う環境に身を置くことで、やらなきゃいけないことに身が入りますし、ビジネス関係の人脈も広がっていくようになりました。

でも、やはり「マーケティングのコンサルティング」や「マーケティングのセミナー」というコンテンツはいくら説明しても「じゃあお願いする」という人は現れませんでした。

誰からも注文が無いまま半年ほどが過ぎました。

マーケティングを教えようというのに自分のマーケティングができていなかったのです。


「ニーズが無い、プロダクトアウトってこういうことだったんだ!」と気付いた瞬間です(笑)

じゃあ、どんなことだったらニーズがあるのだろうか?

私にできることでニーズがありそうな事って何だろう?

そんなことを何日も何日も考え続けました。

そこから生まれたのが「女性マーケティング」という切り口でした。

女性は消費の分野でお財布のひもを握っているにも関わらず、ビジネスの世界は男性が中心です。そこにギャップがあるので、その橋渡しをマーケティングの視点からできるのではないか、と思い至ったのでした。

地元の女性会員にマーケティングリサーチや覆面調査などに協力してもらい、企業に女性の声を届けるというビジネスモデルを考えました。

このビジネスは千葉市コミュニティビジネスのモデルプランとして認定され、新聞にも取り上げられました。

そうしたことをきっかけに、事業が動き始めていったのです。

 

女性の起業をサポートしよう!

起業して数年が過ぎた頃「先輩の女性社長として起業の話をして欲しい」と頼まれることがありました。

その当時はまだ、女性で専業主婦から会社を立ち上げる人が少なかったうえ、インキュベーション施設という場所に入居していたからかもしれません。

体験談を話したりしているうちに「女性の起業セミナー」を開催することになり、そうした機会を重ねていたところ、他の市町村からも起業セミナーの講師や講演を頼まれるようになりました。

私のこれまでの経験はもちろん、マーケティングの知識を織り交ぜながら、ビジネス経験が少ない女性でも分かりやすく起業について理解してもらえるようカリキュラムの改善を重ねていきました。

そうして活動していたところ、2013年に千葉市の起業家支援施設「千葉市ビジネス支援センター中央分館(通称:CHIBA-LABO)」の運営を受託することになりました。

施設の立ち上げに携わって運営についてのマニュアルを作成したり、基盤を作って2014年度まで運営を担当しました。

この施設の運営時に始めたビジネス交流会がベースとなって、いま千葉県でやっているちば起業家応援事業の起業家交流会に繋がっています。

男女問わずの起業家支援施設でしたが、女性限定のセミナーも毎月開催し、女性起業家フェスタという大規模なイベントも開催しました。

その後、起業して間もない女性のための活動拠点を作りたいとの思いで、2014年に女性専用会員制シェアサロン「みずいろ会館」を作りました。

こうした活動をつづけているなかで、多くの起業を目指す女性に会いました。
その数は2千人を下らないと思います。

私が起業した当初は、まだそれほど起業している女性が多くなかったので、困ったことや相談事があった時に、男性の経営者や男性のアドバイザーの方に相談することがほとんどでした。

そうした方に悪気はないのでしょうが、男性の理屈、男性の考え方でアドバイスをしてくださるので、私の「仕事もがんばりたいけど家庭も大事」といった考えは受け入れてもらえないことがほとんどでした。

また女性社長も少ないながらいますが、そうした方の多くが年配で、見た目は女性だけど男性並み、いやそれ以上のパワーでバリバリ仕事をされてきた方ばかりで、私のようにマイペースで仕事したい人の悩み事にはまったく理解ができない、という状態でした。

たぶん、男女雇用機会均等法世代の前と後、女性も働くことが当たり前という考えの多い団塊ジュニア世代の前と後、このあたりが境目ではないかな、と思っています。

今の世代の女性は、仕事もしたいけど家庭も大切にしたい、仕事もプライベートも両方充実させたい、なんならプライベートのほうが大事、と思っている人がたくさんいます。

そういう人の起業相談にも乗れる人が私の時にはあまりいませんでした。

だったらその役割を私が担おう!
そんな気持ちが生まれて今の活動に繋がっているのです。

起業のサポート活動が国に認められました

女性の起業サポートはもちろん、女性のマーケティングも基本的には
女性が女性らしく暮らせるようになって欲しい!という考えをベースにしています。

そうした活動を続けていたところ、2016年に内閣府の男女共同参画局から女性のチャレンジ支援賞を受賞することになりました。

これは首相官邸での表彰式での写真です。

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※中段右端がわたしです。

首相官邸での表彰式なんて私には一生に一度のことでしょう。

 

でも、ここで表彰されたことは
「これまで頑張ってきたけど、これからも頑張るんだよ」
と言われたことだと思っています。 

これからも起業を目指す女性や起業したばかりの女性が、自分の夢を叶えられるように、引き続き応援していきたいと表彰式の場であらためて思いなおしました。

 

50歳を迎えて新たにブログを始めました 

その後も起業のセミナー講師やコンサルティングなどを継続してきましたが、50歳を迎えた2020年の2月。何か新しい取り組みを始めようと思い、このブログを始めました。

これまでもブログは何回かやってきましたが、あまり文章を書くのが得意では無いため、途中で頓挫ばかりしてきました。

これまでのブログは「社長の日記」的なものでしたので、目的がはっきりしていなかったということもありますが。

今回は、私がこれまでセミナーなどでお伝えしてきたことを書き残すことを目的にしています。

人生も折り返し地点となり、私がこれまでライフワークとして取り組んできた「女性の起業のサポート」についてきちんと文章にして残しておこう、と思ったのです。

起業を目指す女性や起業したばかりの女性が主な読み手と想定して、セミナーでお伝えした内容や、女性の起業についての私の考え、そして私自身の起業の経験を織り交ぜながら、記事を書いていきたいと思います。

ということで、長文のプロフィールにお付き合いいただき、ありがとうございました。

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